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アインシュタイン深掘りの巻…②奇跡の年

さてさて、今回は姉妹サイトの続き物として書かせて頂いております。①では、アインシュタインの生い立ちから、数々の理論を打ち立てることができた『従来の科学の常識を疑う姿勢』、また、そのきっかけとなった『権威に対する反発』について書かせていただきました。(詳しくは、アインシュタイン 深掘りの巻・・・①をお読みください。)…当時12歳…

「科学の本を読むうちに、聖書の話の大半は真実ではないと確信した。この経験から、あらゆる権威に対し、疑いの目を向けるようになった。」

そんな思いに拍車をかけたのは、学校の授業でした。生まれた国は危険な時代のドイツ。当然のように、軍国主義的な授業が多く・・・

「学校の軍隊的な気風は、とても居心地が悪いものだった。
 特に、権力を崇拝し、組織的に行う軍事訓練には、不愉快だった。」

1894年・・・15歳で中学を中退すると、独学で進学する道を選んでいきます。1896年、17歳でスイス連邦工科学校に入学。学業が優秀な一方、日常生活はいつも上の空だったそうです。例えば、しばしば、自分の家の鍵が思い出せなかったり、友人の家に泊まれば、スーツケースを忘れて帰ってしったりと・・・

”あの男は大した人間にはならないよ・・・
 何も覚えられないのだから・・・”
 
必死に学んで入った学校でしたが、ここでも授業に失望していきます。物理学の歴史ばかりが重視され、最先端の研究を扱っていませんでした。結局、アインシュタインは学校をさぼっては、独学で最新の理論を学んでいきます。

「大切なのは、個性を伸ばすことだ!
 個性的な人間だけが、新しいアイデアを生み出せるのだ」

しかし、自信過剰で我儘な態度は、教授たちの怒りを買い・・・それでも、アインシュタインは、こう思っていたようです・・・

「権威をむやみに尊敬することは、真理にとっての最大の敵だ。
 生意気万歳!!我が守護天使だ!!」

1900年、21歳でスイス連邦工科学校を卒業。
そのまま大学で助手として働こうと思っていたものの、学生時代からの無礼な態度に教授たちは誰一人雇おうとしませんでした。

「僕は突然、誰からも見捨てられた。」

何とか職を得ようと、ヨーロッパ各国の著名な教授たちに手紙を書きます。

「数理物理学者にご用はありませんか?」

それでも、一つも返事はありませんでした・・・。1902年、見かねた友人の紹介で、特許局に就職。なんと特許局に勤める中で、相対性理論などの数々の論文を発表し、物理学の世界を一変させていくのです。どうして、特許局の下っ端の役人がそんな偉業を成し遂げたのでしょうか?

特許局で、アインシュタインに与えられた仕事は、特許の審査でした。上司からは、”特許申請を受け取った時、「発明家はうそをついている」と思いなさい”と言われました。特許局には、毎日何百もの申請が届くので、短時間でチェックする方法が必要でした。つまり物事の本質を知ることで、とても重要な経験となったのです。もし、他の仕事をしていたら、相対性理論は産まれなかったかもしれないのです。仕事に慣れたアインシュタインは、想像を膨らませることになります。

「知識より大切なのは、想像力だ。
 知識には限界があるが、想像力は世界を覆う。」

1905年、特許局の傍ら・・・
3月「光量子理論」
4月「分子の大きさの決定法」
5月「ブラウン運動」
6月「特殊相対性理論」
9月「質量とエネルギー」

物理学の常識を打ち破る理論を次々と発表していきます。そんな1年でしたから、この年は「奇跡の年」と言われているようです。中でも注目すべきが「特殊相対性理論」でした。

きっかけは16歳の時・・・(つづく・・・③は、再び姉妹サイトへ・・・)

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